「福岡山の会」山行75年史、昭和初期編
■昭和7年(1932年)
※1月、上海事変起こる。3月、満州国建国宣言。
※8月13日、「福岡山の会」創立。
「第1回山行・宝満山」9月11日、参加40余名。
新岩道を経て頂上に至り、昼食後に稚児落としにて懸垂下降の練習。上宮直下の谷を北谷に出て散会。以後、当年内は毎月4回の山行、一般参加も募集。
※会創立前後、まだ一般人の入りがたい山であった福岡近郊の山々の跋渉開発に尽くした。
■昭和8年(1933年)
※日本国が国際連盟を脱退。
「雷山・井原山の集中登山」1月15日、参加30名。
第1回「登山講習会」3月27日~31日、参加60名。
福岡県体育協会と共催、本会が指導。講義3日間と実地指導2日間。金山と野河内渓谷。
「金山集中登山」5月・10月、尾根と沢の全ルートを踏査。
※創立1周年を前にして、会員数が100名を超えた。
「燕・槍・穂高岳縦走」7月17日~21日、米山・同夫人、小林。上高地からガイドを伴う5日間の山行。
■昭和9年(1934年)
「雷山、スキー講習会」2月4日、11日。
「婦人登山講習会」5月11日、13日。
「根子岳西尾根縦走、高岳北尾根登攀」田中・的場。
1日目、宮地から根子岳を縦走、日ノ尾の桜茶屋。
2日目、虎ヶ峰直登、赤壁、鷲ヶ峰、二ノ窓を過ぎナイフリッジから高岳山頂への、会初の登攀報告。
■昭和10年(1935年)
「乗鞍岳」9年12月30日~1月2日、稗田・山前。単独登頂の帰路、猛吹雪に道を失い彷徨。
「春山スキー登山」3月31日~4月7日、御厨以下3名。乗鞍岳を超えて大槍へ。
「日肥国境尾根」7月22日~29日、山田・稗田・緑川以下12名。九州脊梁山地の内大臣~高岳~国見岳~白鳥山~江代山~市房山
を完全縦走の初記録。
■昭和11年(1936年)
「越中剣岳」8月8日~15日、柴籐。富士から弥陀ヶ原弘法小屋~別山乗越~剣岳山頂。源次郎尾根の名付人で剣沢小屋主人の
源次郎翁に伴われて、八ツ峰を縦走し雪渓を一気に滑り、剣沢小屋へ。さらにザイルを使用し源次郎氏を伴って、源次郎尾根を縦走。
“九重山彙と萬年山”。「せふり」11月号特集、竹内編。
■昭和12年(1937年)
※7月、日中戦争起こる。11月、日独伊三国防共協定。
「厳冬の遠見尾根を白馬岳」11年12月28日~1月6日、御厨・林・上山。
第1回「山祭り」5月16日、西山。会旗披露。参加50名。
“三郡山付近の谷”「せふり」5月号、村上記。
概念図と河原谷、草が谷、欅谷、サクラ谷、マガリ谷、茜屋谷、蛇谷、内住谷、大谷(カラ谷)の説明と所要時間の記録。
「脊振山戦勝祈願登山会」11月14日、県体育協と共催。参加400名。
■昭和13年(1938年)
※国家総動員法成立。
“剣岳”4月13日、林記。「猛烈なる悪天候に剣御前小屋に籠城すること5日間、13日午前中の好晴の4時間を見計らいて、苦闘5時間後に登頂に成功。帰途再び激変せる猛吹雪とガスに襲われ、前後8時間の暗中模索ののち帰り着きました。しかし心は、なお氷厳の殿堂・剣の彼方に燃えています・・・」
「大崩山」3月28日~4月1日、山田以下8名。
「野河内渓谷」8月7日、本会主催の一般指導登山会。参加105名。
■昭和14年(1939年)
“英彦山~深倉谷~釈迦岳~宝珠山”3月号、村上記。
「三郡連山徹夜縦走」4月8日、山前。参加9名。
“春の五龍岳と八方尾根”「せふり」9月号、今任記。
■昭和15年(1940年)
“屋久島紀行”「せふり」1月号、山田記。
“鶴見岳北壁研究日誌抄”「せふり」1月号、松岡記。
“冬の富士に登る”せふり」3月号、山前記。
「野北岩登り練習」5月12日、6月24日、加藤ほか。
“後立山連峰を歩く”「せふり」7月号、林田記。
「穂高涸7月21日~30日、田中丸・林・加藤。
21日06:40、五千尺から各自15貫を背負い出発、前穂北尾根~涸沢槍。前穂東壁、雨のため中止。
ジャンダルム飛騨尾根を登る。30日、涸沢から五千尺着。
■昭和16年(1941年)
「阿蘇鷲ヶ峰行」1月26日~27日、加藤・柴田。
“冬季伯耆大山”「せふり」3月号、石橋・小野・田中丸・加藤。アルピニズムとヒマラヤ主義を目指す学生4名による当会初2年2度の冬期大山登攀記録。
「唐沢岳と白馬岳」4月4日~12日、今任。
「大崩山と鹿納山」5月8日~13日、村上・中村・柴籐。
“鶴見岳北壁研究日誌抄”「せふり」3月号、松岡記。
滝の谷・硫黄谷・中の谷の4回に亘る試登の記録。
「阿蘇鷲ヶ峰西陵Ⅲ」10月9日~12日、加藤・田中丸。
※登山の普及奨励が国家的見地から重視され、登山者・ハイカーが増大している、との記述あり。
※12月8日、太平洋戦争起こる(真珠湾攻撃)。
■昭和17年(1942年)
“七山高原調査報告”「せふり」3月号、山田・平原・大賀・村上記。
「樋ノ口山と石堂山」10月16日~20日、村上。
“伯耆大山”16年12月20日~17年1月4日、小野記。
屏風岩直下に幕営して冬期テントの使用法、燃料・食料・個人装備の考察、ロックハーケンを使っての元谷支沢登攀の報告。
“穂高日記”「せふり」7月号、小野記。
「大国見(脊梁山地)集中登山」創立10周年記念山行、山田・村上ら参加17名。
”脊振史抄談”「せふり」11月号、今泉記。山名の起源、肥筑二藩境界論争、山頂史跡案内、神仏混淆由来、参考文献紹介、の8ページに亘る調査報告。
”白髪岳と小白髪岳”「せふり」11月号、村上記。
”金山の尾根・谷な、”「せふり」11月号、村上記。
山麓の集落や炭焼き達は主峰967mをクマシロノ城と呼んで金山の名称は全く通じない、などの記述。
■昭和18年(1943年)
「伯耆大山、地獄谷冬期登攀」17年12月21日~18年1月2日、小野。
地獄谷三本槍初登攀の記録。セクリタスザイル30m、アイスハーケン・ロックハーケン・アイスバイル・ツェルトザックなどを使用。
”元旦の富士山頂より”1月1日、山前記。
「相変わらずの猛風の御馳走で困りました。やっと今、頂上の極楽郷でのんびりなっているところです。ちょうど冠松次郎氏も来られ、
頂上の元旦の夜は賑やかに過ぎていきます・・・・」
”冬期伯耆大山元谷沢に就いて”「せふり」7月号、小野記。概念図・名称・地形・登路・登攀記録など。
「百キロ行軍練成会」10月16日~17日。福岡~二日市~甘木~大石~久留米~二日市。
「脊振登山会」11月23日、一般指導。参加46名。恒例の一般指導登山会は、今回が最後となる。
■昭和19年(1944年)
※1月1日現在の在籍会員、204名。「FYK通信」の7月号(戦中戦後の号)は、時局から7月の会山行中止、戦地からの便り多く、山行の
報告も無い。
「祖母山・久住山」9月の5日間、柴籐・平原・村上。戦時中最後の山行。
■昭和20年(1945年)
※6月19日、福岡大空襲。 8月15日、終戦。
「鳥屋山周辺、仏谷付近の山」10月21日、柴籐・村上・大賀・古野・平原。
柴籐疎開先(朝倉郡)における会員の戦後初の団体的山行。
■昭和21年(1946年)
戦後第1回月例山行「浮嶽」11月17日、村上・加藤ら参加12名。会員への連絡がつかず、西日本新聞に山行計画を掲載。
■昭和22年(1947年)
”脊振の近況”「通信」1月(復刊)号、村上記。脊振山頂直下まで自動車道が出来ているとの記述あり。
戦後第1回「登山講習会」8月23日~25日、脊振山系、参加40名。西日本新聞社後援、山田・柴籐・村上ら企画。
多数気鋭の新人の入会を得た。
「阿蘇鷲ヶ峰」10月18日~19日、山田・柴籐・村上・加藤・緒方らが企画。
仙酔峡をベースとし①6ルート7パーティー21名、②仙酔尾根パーティー12名、による集中登攀。鷲ヶ峰登攀史上画期的なものであり
当会の「阿蘇合宿」の始まりともなった。
「阿蘇鷲ヶ峰北稜」11月3日、加藤・成吉・緒方による戦後の初登攀。
■昭和23年(1948年)
「大崩山集中登山」4月24日~27日、山田以下14名。
「阿蘇鷲ヶ峰北壁中央ルンゼ」8月16日、稲富・加藤・成吉。当会戦後の初登。
鷲ヶ峰に長い歴史を持つ五高山岳部(昭和12年匂坂部員の遭難以来、登攀禁止となっていた)の緒方現会長を含む4名による記念的な
戦後初登攀を待って、翌16日に登攀した。
「万年山観月登山」9月18日~19日、梅崎以下23名。
「阿蘇鷲ヶ峰北壁チムニールート」11月14日、岩城・梅崎。チムニーを初登し、「FYKルートと命名」。
なお、その後に当会が開拓した関門~鷲の肩の最短ルートも「FYKルート」と呼ばれている。
■昭和24年(1949年)
第1回冬山「厳冬期鹿島槍ヶ岳東尾根登攀」23年12月21日~24年1月24日、加藤以下12名。極地法を展開。
CL加藤、アタック上岡・緒方・稲富・梅崎。SL森田遭難死。
「阿蘇鷲ヶ峰北壁匂坂ルート直下よりの新ルート開拓」5月29日、上岡・諸岡。
「前穂高東壁登攀」9月20日~297日、上岡・諸岡。冬山偵察。
第5回「鷲ヶ峰岩登り講習会」8月20日~22日、上岡・加藤・諸岡・梅崎・脇坂・内野・岩城ら39名。
■昭和25年(1950年)
第2回冬山「厳冬期前穂高岳登攀」24年12月30日~25年1月16日、上岡・諸岡・内野・井島・金丸・木下・梅崎・緒方・片山・栗原・松村。
「阿蘇高岳」2月11日、上岡・井島・讃井・中川・佐野・川口・内野、会員外2名。
「西穂高~奥穂高~北穂高岳縦走」4月28日~5月9日、加藤・上岡・梅崎・緒方・内野・石田。
※西日本新聞社と共催のハイキングが定期的に行われている。
■昭和26年(1951年)
第3回冬山「厳冬期前穂高岳東壁登攀」24年12月30日~1月16日、加藤・栗原・佐野・讃井・稲富・緒方・梅崎・上岡・諸岡・川北・吉冨。
「剣岳」4月28日~5月5日、加藤・梅崎・木下・緒方・阿部・鳥井。
■昭和27年(1952年)
「富士山厳冬期訓練」26年12月29日~1月18日、加藤・諸岡・内野・鳥井・上岡・石原・佐野・脇坂・稲富・川北・梅崎・松田(岩稜会)・
照沼(茨城大)・大石(西日本新聞社特派員)・上田(同)・柴籐・高尾徳。
第4回冬山を兼ね、ヒマラヤ遠征のための訓練・装備・食料・高度順応医学検査などを行う。
「伯耆大山スキー行」1月11日~15日、参加15名。
※8月10日、トゥインズ(ヒマラヤ)遠征計画を政府が承認。加藤・緒方・川北・稲富・内野・諸岡・及び西日本新聞社特派員のインド行き旅券を取得。
※8月10日、遠征用隊荷(装備・食料)神戸港に集積。
※8月15日、インド政府より、入国保留の通告が届く。
「阿蘇鷲ヶ峰合宿」8月16日~17日、藤田・末富・柴田以下37名。
■昭和28年(1953年)
第5回冬山「鹿島槍ヶ岳合宿」27年12月17日~1月15日、加藤以下18名。九大山岳部と合同合宿。
「鶴見岳・由布岳」3月20日~22日、末富以下40名。
「穂高岳」4月28日~5月5日、内野・川崎・瀬戸・豊永。
※5月29日、英国隊がエベレスト登頂。
※ヒマラヤ遠征計画中止、7月3日。九州未曾有の豪雨禍が後援の西日本新聞社らの遠征資金計画に致命的な支障を来たし、一時中止のやむなきに至った。
「阿蘇合宿」8月14日~16日、CL諸岡以下23名。
「大崩山」8月15日~19日、村上。
「阿蘇鷲ヶ峰」11月21日~23日。
■昭和29年(1954年)
第6回冬山「明神東稜~奥穂高」28年12月26日~1月13日、L諸岡以下14名。
「阿蘇合宿」8月14日~16日、参加29名。
「野北岩登り合宿」9月18日~19日、参加42名。
「冬山強化合宿、鷲ヶ峰」11月21日~23日。