インドトゥインズ(7,350m),1952年~登攀とカンチェンジュンガ偵察~
「斯く考え斯く行動して、我々は改めて日本の山岳界を見回してみた。この国にはヒマラヤを啓蒙してくれた先輩や文献には事欠かない。ヒマラヤ礼賛者にいたってはそれこそ何万人いることであろう。しかし、ヒマラヤ行きを現実的に考え黙々として一歩一歩前進する人が、山岳団体が、はたしてどれだけあるであろうか。」
これは当時の計画書の一部である。いまでもこれは一脈通じるものがある。
本会の戦後初のヒマラヤ計画は各界、各層から支持され固唾をのんで注目された。
日本よりむしろ外国が注視し、積極的に支援してくれた。残念ながら隊荷を神戸港に集積、出帆寸前にインド政府より現地情勢が悪い、とのことで入国が一時保留された。その後、パキスタンのティリチミールの許可が出たが、この快報も10日たらずして九州、とくに北部九州を襲った大水害のため資金計画に致命的支障を来たし、中止のやむなきに至り、戦後、日本初のトゥインズ計画は涙をのんだ。
トゥインズ計画は実らなかったが、日本山岳会のマナスル、福岡県山岳連盟のティリチミールの引き金となったことは事実である。装備などは京都大学のアンアプルナ隊譲られ報告書の写真のテントにFYKの文字が写っているのがあり強烈に脳裏に甦った。
隊員/ 加藤秀木、諸岡久四朗、緒方道彦、川北幸男、稲冨 昭、内野宏昭
費用/ 3,420,963円
日程/ 7月23日 神戸~カルカッタ~ダージリン~BCー登山~ダージリン~カルカッタ~神戸 12月16日
前記のトゥインズ遠征計画は、当時国際的に注目されており、その様子は世界の登山に関する貴重な文献とされている。
1952年にはヒマラヤ登山熱が高まっている。3~4隊以上の本格的な隊と多くの小規模な隊が登頂をめざしている。とくに注目されるのは日本隊である。彼らはゼム氷河奥のトゥインズを狙っているが、実はもしそのルートの半分まで成功すれば、カンチェンジュンガが攻撃できることはいわば公然の秘密であった。
カンチェンジュンガに対しては2つのルートが考えられる。
そのひとつが、まさにトゥインズを経由するものであり、いまひとつは、ゼム・ギャップから南東稜を経由するルートである。
後者のルートから前峰(8,476m)には到達できる。それだけでも立派な成果ではあるが、ここから主峰に向かう稜線は、まず絶対に不可能というほかはない。前者のトゥインズ経由のルートは、かなり長いが誰もがまだ確かめてみた者はいない。日本人たちは本格的な準備を進めている。すでに1948年冬には12名のメンバーを日本アルプスに送り、厳しい悪天候のなかで難しい登攀を試みた。登頂には成功したが、その際優秀なメンバーをひとり失った。
1949年と1950年の冬と春にもトレーニングを重ねている。訓練では常にテントを使用し、隊員たちは必ず30㎏のザックとスキーを担がねばならない。この遠征は、広く各界各層の支持を得て「福岡山の会」(Fukuoka Alpine Club)が派遣するものである。(1952年版、277ページ)
以上の文献は、緒方道彦会長が入手し例会の席で披露されたもので、当時世界の情勢に疎い我々にはこうしたニュースに敏感な先進登山国に改めて敬意を感じたものである。
そして再び若き日の夢が実り、18年ぶりに以下の海外遠征登山が日の目を見ることとなった。
【平成4年11月刊(創立60周年杵特集号)4ページ(緒方)】