ネパール ダウラギリⅣ峰(7,661m),1970年
1952年、戦後日本初のトゥインズ7,350m(シッキム側)が神戸まで隊荷を送り隊員が出国寸前、インド政府の国境周辺事情悪化のため、中止となった。再度、ネパール側からトゥインズに登頂すべく準備を開始したが、またまたネパール政府は国境周辺の悪化のため、登山を禁止した。解禁への見通しは立たず、しかし解禁の暁には直ちに目標の山へ向かうべく準備をすることとし、探査隊派遣を決定。
○探査隊 1968年3月
高山一義、鍋山五郎の2名をネパールに派遣し、東部のタブレジュンから西に移動、ダウラギリ山塊を調査、鍋山は5月に帰国。高山は引き続き滞在しネパール政府の登山解禁、登山隊の動きを徹底調査し、近い将来解禁と、わが会への許可の感触を得て、10月24日帰国した。
高山の帰国早々10月7日付けで「1970年ポストモンスーンのダウラギリⅣ峰」許可の朗報が届いた。
☆昭和43年「せふり」3月号「ヒマラヤ探査に寄せて」(脇坂)、「ヒマラヤ探査計画書」(同委員会)。
5~11月号「ネパール通信」全10信(高山8信、脇坂2信)。
9月号「ネパール探査隊の行動概要」(鍋山)。
11月号「帰国のご挨拶」(高山)。
44年1月号「探査を終えて」(高山)。
当時無名峰(仮称:ダウラギリⅥ峰)を申請したが、地図上にはそのような山は存在しない、Ⅳ峰にせよ、ということで変更に同意、許可を得た経緯がある。
緒方隊長は「ここまで来るのに18年かかったよ」と言われたが、胸中察するに余りあるものがあった。
成果は、ガマピークは地図上になかったがネパール政府も認めて現在は掲載されている。
エベレストよりも長いアプローチと、おりしも冬を告げるジェット気流の兆しがあり、残念ながら撤退を決めて11月9日BCを後にした。
| ◆隊員構成 | ||
| 隊長 | 緒方道彦(44) | |
| 副隊長 | 稲永 篤(37) | |
| 食糧 | 中島克洋(28) | |
| 装備 | 木本康之(35) | |
| 装備.渉外 | 久永勝介(28) | |
| 渉外.輸送 | 高山一義(27) | 食糧 | 鍋山五郎(23) | 輸送 | 古賀 眞(22) | 西日本新聞特派員 | 池野 寛(38) | リエゾン・オフィサー | I.B.セルチャン | サーダー | ミンマ・ツェリン |
| ◆行動日程 | ||
| 8月8日~12日 | 先発 高山、久永、古賀 | |
| 9月2日 | 本隊 緒方隊長、稲永副隊長、木本、中島、鍋山隊員、池野記者板付空港発 | |
| 4日 | カトマンズにて全員合流 | |
| 8日 | ポカラ チャーター便(2機) | |
| 10日 | キャラバンスタート | |
| 22日 | BC入り(4,200m) | |
| 10月25日 | ガマピーク(7,150m))初登頂 中島、鍋山 | |
| 11月 1日 | ダウラギリⅥ峰(7,268m)第2登 中島、古賀 | |
| 9日 | BC初バックキャラバン | |
| 18日 | ポカラ | |
| 21日~30日 | カトマンズ | |
| 12月 2日 | 板付空港、帰国 | |
| ★昭和44年「せふり」11月号「ダウラギリⅣ峰に許可の報」。 月号「ヒマラヤ委員会」の報告。 |
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| 昭和45年1月号「待望のヒマラヤ登山実現の夢に寄せて」(竹内)、 「ヒマラヤ委員会」報告。 7月号「遠征隊出発迫る」、同月付録号(壮行会配布用)。 昭和46年1月号「ヒマラヤ通信」(緒方)、「ナマステ・ヒマラヤ」(緒方)。 |
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